個性を問うことは、個性的であるか個性的でないか

  • 個性を問うことは、個性的であるか個性的でないか、いずれかである。
    • 個性的である、と仮定しよう。
      • 個性的である問いかけに答えることは、(やはり)個性的であるだろう。
    • 個性的でない、と仮定しよう。
      • 個性的でない問いかけに(あえて)答えることは、個性的であるだろう。
  • 個性を問うことが個性的であるにせよないにせよ、個性を答えることは個性的である。

「個性」という語は多義的で、文脈によって意味や用法が変わります。おおまかに分けるなら、ある「個性」を有しているかどうかという問いと、その「個性」をどう評価するかという問いを立てることができるかと思います。

後者の場合、その「個性」は「良い個性」なのか「悪い個性」なのか、「個性があること」は良いことなのか、「個性がないこと」は悪いことなのか。もし「個性がない」ということも個性であるなら、個性のない事柄は一切ないということになるのではないかといった問いが考えられます。

前者の場合、その問いを発する前に、そもそも「個性とはどういうものだろう」という問いが抱かれます。「個性」というものが、どういうものなのかわかっているのであるなら、それを有しているかどうか、そしてまた、それをどう評価するかという指針も立ちやすいことでしょう。

そのようなわけで、わたしたちは「個性」に関わる問題を考えるときに、「そもそも個性とはなにか」という問いを念頭に置いているはずです。それでは、ややパラドキシカルな問いになるけれど、この「個性とはなにか」という問いは個性的でしょうか。

この問いは言葉遊びではないし、無益なわけでもないと僕は思います。わたしたちが人に「個性」を問うとき、それは「個性」の有無や「個性」の善悪というよりも、むしろ、そもそも「個性」に関して、どういう見解を抱いていますかということも、同時に訊いているのです。そのように、人は「個性」を尋ね、翻っては「個性」を説明しているように思います。

したがって、「あなたの個性は?」と尋ねられて「「個性」の定義によります」と返すのはありうる態度ではあるけれど、面白味に欠けます。そこには「道徳とは?」と尋ねられて「「道徳」の定義によります」と返すのと同様の虚無感すら漂っています。わたしたちはそんな当たり前のことを訊きたいのではなく、まさに「あなたはどう定義しますか」ということも同時に尋ねているからです。

ですから、ある人が誰かに「それは個性だ」と言うとき、まさにその発言が、ある事柄に個性を付与しているのです。飛ばない豚を「ただの豚」にしたのは他ならぬポルコであって、飛ばない豚でもすごい豚はいるかもしれない。しかし、そこを「飛ばない豚はただの豚だ」と言い切ってしまう価値観、それを格好良いと思ったり、酷い偏見だと思ったりするわけです。

周囲から受け容れたものを転用しているだけでは道は切り開けず、間違うかもしれないという危険を犯しても、新たなる光景に向かって一歩を踏みだす、そのための判断と主張が必要なのです。

「個性」を尋ねる人は、あなたが実際に成立している事柄から「個性」と呼ばれるものをどのように抽象し、認定し、評価するのか、それを尋ねているのです。問う、問われる、答える、答えられる、そうした活動のなかで「個性」はその語の役割を果たすのでしょう。