情報の流れと信憑性、そして嘘ニュース

webの情報は話半分に。コーヒーを片手に.

とても面白い話題で、「Webの情報は胡散臭いから疑ってかかれ」という文句を再提起されているところなど共感できました。ただ、僕の考えと違うところもあるので、少し書いてみたいと思います。僕が気になったのは以下のニ点です。

1.どれほどの人が「流れ」による「信憑性」を感じているだろうか

ひとつは、個人ニュースサイト論よりの文章を書こうとする人がしばしば陥る罠ですが、「普通の人はそれほどニュースサイトを巡らない」ということです。「なえふ」さんが

いろんなサイトで取り上げられているんだから本当のことなんだろう」という意識が閲覧者には芽生えているような気がしてならない。

と言うとき、そのような広い視野を持つということで問題意識が芽生えるのはわかるのですが、それが、どこまで個別の閲覧者と互いに共有できる問題なのかというのは難しいところです。むしろ、複数のサイトを覗いて「流れ」を感じているような「情報に敏感な人」は安易に信じたりしなさそうです。これは ネタの流れ のときにも書きました。そういう問題意識の提起によって、

  • 取り上げる記事の信憑性に関してニュースサイタに注意を促す
  • 取り上げられた記事の真理性の判断に関して閲覧者に注意を促す


というのだけならわかるのですが、そこに、

  • 閲覧者のチェック機能による運営者への情報のフィードバック
  • 検索したときに怪しい情報が上位に来るのは困る


といったことを問題にしようとすると、それは話の広げすぎではないかと思います。そういった点で、話題の方向を絞る必要があるのではないでしょうか。これらを同じ土俵で一緒に解決しようとすると違和感が生じてしまう気がします。あるいはもっと抽象度を上げた話題にするかですね。

1-1.意識まで検索エンジンに支配されてはならない

また、検索したときに間違った情報が記載されたサイトが上位にきてしまうということを憂うのなら、それは「検索エンジンを恨む」のが筋だと思います。検索の上位になにがこようが、それは個人ニュースサイトの運営者としては「知ったことではない」わけです。

検索エンジンの上位にきてはまずいからといって、個人ニュースサイトの運営者が目の前の面白いネタを更新から省いたりするのもおかしな話でしょう。つまり、サーチエンジンの上位に信憑性のない情報がきてしまうことがあるというのは確かに「結果」としてあるでしょうが、それが「原因」になって個人サイトがネタを選ぶというのは変な話です。逆転しています。

ちなみに僕は、信憑性のない記事、ないし、僕が個人的に取らない立場を啓蒙している記事などにはリンクを張りません。しかし、それが良いことなのか悪いことなのか、適切なのか不適切なのかは不明です。なえふさんは端的に「情報が間違っている」場合に限って話を進めていると思いますが、情報というのは「不足していても」「過度でありすぎても」読み手に誤解を引き起こすものです。

1-2.情報は間違っていると気付かれて初めて「間違った情報」になる

僕は情報を右から左に流すだけですから、その情報を価値付けているのは仲介役にすぎない僕ではありません。それは個々人がすることです。しかし、たしかに僕も情報の受け手なので、僕を通ることでなにかしら価値が付加された情報を流しています。または、僕が扱ったというのがその情報の付加価値になります。そういうフィルタを何枚も通して情報には価値が上乗せされていきます。

「間違った情報」が「流れ」に乗っては大変だと言いますが、しかし、「間違った情報」こそ「流れ」に乗って初めて「是正されうる」のではないでしょうか。流れに乗った時点で、その情報は「間違った情報」ではなかったはずです。流れに乗って誰かに「間違っている」と指摘されて、そのとき初めて、それは「間違った情報」になるのではないかと僕は思います。

2.信憑性のない情報がはたして一人歩きするか

そして、もうひとつ、なえふさんは、

信憑性のない情報が一人歩きしてしまうことになりかねない

とおっしゃるのですが、僕は「信憑性のない情報が一人歩きするようなことはない」と考えています。一人歩きしたのであれば、それは「信憑性があったから一人歩きしだした」わけです。およそ、誰からも信用されないような情報が一人歩きするというようなことがあるでしょうか。なまじ信憑性があるからこそ、疑惑の対象になるのですし、そのこと自体に問題はないでしょう。

ところで、もしかするとなえふさんは、「信憑性はあるのだけど、実はまだ十分な正当化が与えられていない情報が、まるで真実であるかのように人の目に付いてしまう」ことを危惧しているのかもしれません。そういうことであれば、僕も注意が必要だと思います。

2-1.実は中間が一番少ないということ

わかりやすい説明をすることと、事実を記述することの間には差異があります。そして、ウェブでは前者が好まれる傾向があります。そして、そこには少なからず間違っている(ようにしか読めない)説明もあります。概略としては便利だけれども、必ずしも厳密ではない情報です。けれど、わかりやすいためにそちらが好まれます。

つまり、そこで満足する人というのはそもそもファッショナブルな「雑学」としての話の種が欲しいのであって、そこに「知識」を求めているわけではないだろうということです。逆に、厳密に証明された、ないし、正当化が与えられた「知識」を求める人は、最初から Web の情報など話半分に読んでいるはずです。つまり、志向性として人の態度は二極化しており、中間でその温度差を感じてしまう人は実は少ないように思います。

2-2.信憑性があることと、真であることの区別

繰り返しになりますが、ここに区別しなければならない点があります。ある情報に信憑性があるかないかということと、その情報が真であるか(真であることの正当化が与えられているか)ということは別のものだということです。なえふさんは、

情報が「流れ」に乗ることで、どこかに「信頼感」という付加価値が生じている。

と言われ、そこをやや否定的に把握されているようですが、僕はむしろ、そこを省いてしまったら「Web が台無しだ」と思います。情報が「流れ」に乗り、その過程を通して、疑われたり、修正されたり、注目されたり、もちろん、大勢の人が正しいと情報として扱うことによって信頼されたりするといった、付加価値が生じること、それこそがウェブの醍醐味ではないでしょうか。

情報の真偽というのは当然、そこに関係してくるでしょうが、それ以上に、大勢の人に注目されているという付加価値が Web においては特に価値を持つのです。いろいろな情報がいろいろな人に関わって、しかも、それが自分のところにも繋がっていて、やろうと思うなら、自分からも情報を送り出せるというダイナミズムにこそウェブの価値があります。

ウェブを流れることによって、まだ「真である」かどうかはっきりしてはいないけれど、大勢の人に「真であると見なされる」ことによって、ある情報の「信憑性」は次第に高まります。沢山の個人ニュースサイトで取り上げられるというのはそういうことの価値です。そして、そのような過程のなかで無視されたり、正当化が与えられたり、反証されたりして情報は鍛えられるわけです。「信憑性」が高まり、大勢の人に影響を与えるという段階になって初めて「真偽」が問題になるのでしょう。

2-3.ニュースは、やはり、ニュースである

やや余談になるけれど、以上のように考えることによって、個人ニュースサイト界隈でときおり話題になる「嘘ニュース」に関して、その「嘘のニュース」を「普通のニュース」と別種のものと考えないでも良いというメリットが生じます。「嘘ニュース」は真理値として「偽」を持っていて、「普通のニュース」は真理値として「真」をもっていて、いずれにしても、その情報は人に「真と見なされる」ことによって伝播するわけです。

最初に持っている値がどうであっても、情報が伝播するときには「真である」と見なされて伝わるはずです。基本的なこと以外はなにも変わりません。その情報は「新しい情報」として人に伝わり、受け手になにかしらの態度決定を迫るでしょう。そして、「普通のニュース」に虚偽が含まれていたりするように、「嘘ニュース」が真実になったりすることもありうるのです。「嘘ニュース」という「実は普通のニュースと同じ構造を裏返しにしただけ」というパロディが威力を持つのはこのせいです。

3.後書き

終盤はなえふさんのテキストのなかにあった論点から少しずれてしまいました、すみません。また、「閲覧者も気を付けなきゃならないんじゃない」という提言は、僕も閲覧者の立場から同意できます。個人ニュースサイトの運営者も基本的に一介の閲覧者にすぎないわけです。でも、そういう点を無視して指摘に徹してしまったことはお詫びしておきます。