なかにいるのは中の人なのかキャラクタなのか

鴎庵 さんから前回の 名前に積み重なる信頼と道義的責任web人格のIDについて というエントリで反応をいただきました。やや往復書簡のような雰囲気が漂っていて楽しいのですが、これを読まれている閲覧者の方々はどう思っているのでしょう。少し気になるところです。

それでは、「名前」と「サイト」を分離する必要性に関して、あと少し触れたいと思います。正直、鴎庵の wavesll さんの指摘でこれは悩みました。僕もオーソリティということに関しては 以前に書いたテキスト の映画評の件で触れているとおり、軽視しているわけではありません。むしろ、僕もそこがとても重要だと思っていて、「個人孫ニュースサイトは大手サイトの劣化コピーだ」という攻撃に対しては、「どれだけネタがかぶっていても、別々の人がサイトを運営しているということ、異なるサイトが異なる人によって続けられているということには意味があって、それが面白い」という反論をしてきました。

オーソリティを積み重ね、ある種の人格(サイト)を形成するということ、そして、それこそが、そのサイトの発言力になるということに関しては、僕もおおむね了承します。だから、実質的には「名前」と「サイト」の機能は重複するところが多分にあると思います。「ゆらめき雑記の香陸」が言っていたというのと、「ゆらめき雑記」が言っていたというのは、それほどの違いはありません。「ゆらめき雑記」というのは「香陸」という名前の延長にあるものと考えられます。したがって、「名前」と「サイト」の区別をさしあたり強調する必要はないのではないかと一瞬、思ったのですが、やはり区別する必要があるだろうなと思い直しました。

というのも、この場合のオーソリティというのは「サイトのオーソリティ」ですね。そして、掲示板などで「名前」が発言するときの影響力は「名前のオーソリティ」です。ここにある違いは、「名前」の発言は、よほどのことがない限り、その名前の向こうに「特定の人物」がいるのに対して、「サイト」の場合は、そうとは限らないということです。往々にして、「サイトの人格」ないし「キャラクタ」というのは「名前」や「中の人」から乖離します。これは名前の発言がダイナミックであるのに対して、サイトの発言がスタティックであることにも関係すると思います。

wavesll さんも上記のエントリで「webでは1人で複数のIDをもてたりする」と言われているので気付いていることだと思いますが、逆に「複数の人でひとつのIDを形成する」ことも可能なわけです。名前とサイトが一対一に対応していれば、「名前」と「サイト」の区別を強調する必要は実質的にはないと思いますが、実際には、しばしばそれを逸脱することもあるので、僕としてはやはり「名前」と「サイト」の区別は必要だろうと思います。

このとき、「名前」が特定の人格に到達するための入口であるのと同様に、「サイト」が特定のキャラクタに到達するためのものになることもあると思います。「サイト」が「名前」の拡張だとすると、「サイト」と「名前」は同じ「中の人」を指し示すわけですが、「サイト」が固有の「キャラクタ」を指し示し、中の人を指し示さないという場合もあります。「VNI」サイトがこれに当たると思います。逆に言うと、閲覧者の意識を「サイト」から「キャラクタ」を飛ばすことができなかった「VNI」サイトは軒並み潰れていったように思います。

これらのことは「名前」の拡張が固有の「サイト」になるのと同じようにしては、「サイト」の縮小が固有の「名前」を指し示すわけではないという事情を表しています。つまり、書き手としては、自分と名前とサイトというのはリニアに繋がっているものですが、読み手にとっては、サイトと名前と中の人というのはリニアに繋がっているわけではないのです。そして、「サイトの影響力」を「サイトを運営する人の影響力」ということではなしに、「サイトの人格の影響力」であると表現することができるとするとき、ここで「サイト」と表現されているものと「名前」と表現されているものは、同じ機能を果たすものであるだろうと思います。