名前に積み重なる信頼と道義的責任

前回の サイトと名前と中の人鴎庵 さんから感想をいただきました。ご指摘の点は僕も納得できます。たしかに「名前だけ」か「名前+サイト」かには明白な差異があると思います。期待される責任の大小は以下で検討するとして、その影響力は明らかに「名前+サイト」のほうが大きいだろうと思います。

そのことは以前 小生にうず に書いた サイトを継続することによってサイトの個性は現れる というテキストで少し触れています。サイトを持っている場合、新しいテキストの評価というのはそれまでに書いてきたテキストの積み重ねの上でされるので、閲覧者の判断材料が多いという点で、より信頼性の高いものになるだろうということを書いています。

というわけで、今回のテキストと共通するファクタは「責任」です。まずは、この「責任」の意味をはっきりさせる必要があると思いますが、僕はこれを常識的に「義務に付随するもの」として把握しています。これは法律学の脈絡に沿います。基本的に「義務を果たさなかったときに受ける制裁」が責任です。しかし、「責任」という言葉が使われるときには、「規定されるような義務はないけれども、請け負うことが暗黙に了承される」ような「道義的責任」というものもあります。ウェブの発言に求められる責任として了解されているのは、こちらのほうが多いように思います。

また、「義務」には「権利」が付随しており、「権利なき義務」も「義務なき権利」も空虚であるということ、そして、権利と義務のバランスが不安定でどちらかに偏っている場合も不適正だということにも、いちおう触れておきたいと思います。そういう風に見たときに、ウェブ上の発言に対して、各人がどのような責任感を持ったほうが良いのかということを、以下で多少はっきりさせたいと思います。

まず、「道義的責任」を自らに科すことの効用はあるでしょうか、あるのならどこにあるのでしょうか。これは世代間倫理の難しさに似ているようにも思うのですが、絶対的に科さなければならない根拠というようなものは、どこにもないわけです。実際、ウェブにおいては(主に匿名の人物による)散々な暴言がまかり通りわけですが、それに対して「そういう行為はしてはいけない」「そういう言語使用はいけない」と彼らを叱責する根拠はありません。

しかし、このように忠告することはできるのではないでしょうか。「暴言は君の名前にとって損になるから止めなさい」という具合です。これは「道義」というあやふやなものに準拠した注意ですから、忠告ないし示唆に留まります。さらに名前を持たない存在にとっては通用しない忠告です。しかし、どうして損になると言うことができるのか。それは、その暴言によって、その名前に積み重なる「信頼」が損なわれるからです。ここで「道義的責任」と「信頼」は繋がっています。

逆に言うと、人は「信頼を得る」ために「道義的責任」を自らに科すのです。ここにおいて、人は自分の名前のために生きると言うことができます。ですから、奇妙に聞こえるかもしれないけれども、「科される同義的責任」と、そこから生じうる「信頼」というのは、「名前」に積み重なるのです。実質的に、「名前」に「信頼」が宿るのです。

実社会を相手にしているのなら、この話はここで終わります。通常、「人物」と「名前」というのは不可分のものとして結合しているからです。名前に信頼が積み重なると言うとき、それは実際に信頼を獲得していることを意味しています。しかし、ウェブを相手にするとき、この話はここでは終わりません。ウェブにおいては「中の人」と「名前」は乖離する傾向があるからです。名前に信頼が積み重なったところで、その信頼は中の人に積み重なっているとは限らないのです。そこで、中の人は、その名前に積み重なった信頼をどこかに固着するしようとします、それが「定住地の確保」であり「サイトの構築」なのだと思います。

したがって、「「何某」のみでも続けて使っていれば責任は発生しますが、どこどこの何某といったときは更に高度な責任が発言に求められるのではないか」という見解は僕とは少し違っていて、僕は基本的に、中の人に求められる同義的責任は「名前だけ」でも「名前+サイト」でも同じだと考えています。

ただ、サイトを作ること(一定の場所に「信頼」を固着させようとすること)によって、定常的なアクセスが発生します。それは「信頼感が高まる」と表現してもよいと思います。そして、信頼が高まるということを肯定的に評価する人にとって、それは「期待される道義的責任の増大」を意味しているだろうと思います。

ちなみに、この話で面白いのは、「期待」も「信頼」も読み手の認識であって、書き手は基本的にそれを把握できないということです。したがって、ウェブの発言というのは、自分の名前に対して読み手の信頼を得たいと考える人に限って、道義的責任を要求するものであると思います。そして、ウェブサイトというのは、その要求を増幅させるものであると僕は把握しています。