ネタの流れに関して

個人ニュースサイトが生み出す「流れ」と情報リテラシー

嘘ニュースサイト 虚構新聞社 さんの閉鎖に関連した話題です(追記:移転して Kyoko Shimbun News(虚構新聞社) として復活されています)。しかし、嘘ニュースサイトというのは改めて考えてみると奇妙な単語です。というのは、この単語には「ニュースサイトというのは事実を伝えるものであり、そうでなければならない」という前提が隠されているからです。これはニュースというもの本質に関わることだと思いますが、いまここで問題なのは、そのテーゼがどこまで「個人ニュースサイト、すなわち、ニュースを扱う個人サイトにも求められているのか」というところにあります。

ただ、今回はちょっとその話題は置いといて、黒板ぽ さんの指摘される「個人ニュースサイト界隈には<流れ>がある」というところに注目したいと思います。僕もそれは気になっていたし、個人ニュースサイトの管理人さんは、そこのところ大なり小なり気付いている上で日々の更新をされていると思います。

それは前提にしてですが、僕はサイトの向こうには「発言をする一部の読者」と「圧倒的多数の傍観者」がいると考えています。<流れ>というのは1日に数10サイトを巡り、数100のネタに目を通すニュースサイターこそ感じていても、意外と「常識的な閲覧者」は感じていないということは多いです。

これだけいろいろなサイトで取りあげているのだから、僕のサイトで取り上げないでも知ってるだろうと漠然と思っていたようなネタでも、実際に会ったときに友人に訊いてみると、全然知らなかったというようなことはしばしばあります。普通の人は1日にニュースサイトを10も20も周らないのです。だから、Web に流通するネタの話を友人とするとき、ニュースサイターとしては会話できません。友人がそれらの話に着いてこられないからです。

また、だからこそ、有名な他のサイトで取り上げられた記事でも、自分のサイトで取り上げることには意味があります。自分のサイトにしか訪れないような閲覧者もいるに違いないからです。ニュースサイターは、その視野のなかに Web に流通するネタの流れを収めているのが望ましいけれども、そのサイトが個人サイトである以上、ニュースサイターの視点を重視するサイト運営が望ましいのだろうと思います。自分と、自分のサイトの閲覧者を大切にしようという話です。

Web に流通しているネタを武器にしているからといって、ただ単に Web の一部としてネタを放出しているのだけでは、いささか物足りないものがあります。というのも、僕たちは Web という場にいるのと同時に、僕たちの主張こそが Web という場を生きたものとして成立させているからです。