『こんにちわ』撲滅委員会
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僕は正直なところ、「こんにちは」でも「こんにちわ」でもどちらでも良いと思うし、違和感もさほどありません。ただ、「こんにちは」が好きです。まあ、それは伝統ですね(しかし、音や形は「わ」のほうがスマートに感じます)。リンクやジャパニーズオンリィ、無方式主義などはやり尽きた議論で知っているか知らないかの問題だと思うのでそれも気になりません。

むしろ僕は「い抜き言葉」「ら抜き言葉」の使用をどうするかというのが微妙だと思います(他にも省略系の微妙な二種類の表現は多いですよね)。「ら抜き言葉」は「られる」と「れる」で最近は往々にして「使う場面が異なる」のでそれほど害はないのですが、「い抜き言葉」が実に難しいところです。もちろん、公的な文書の類は無視して、ウェブ上の表現として「い抜き言葉」を厳守すること(俗に言う「正しい言葉遣い」とかいうの)は、公的枠組みの私的文章という独特のスタンスにある媒体において、必ずしも有益とは限らないということを経験として僕は感じています。文章が堅いのですよね。それがまた画面の向こう側のキャラクタを殺します。

そういうことを思うと便宜的にある程度崩して言語を用いることは許容されて良いと思います。ポイントはそういう表現を「選択して用いているかどうか」というところだと思います。しばしば日本語の乱れということで取りあげられますけれど、僕の感じるところでは「乱れ」というのを悪い意味で把握しすぎなのと、「乱れ」を全般的な問題として把握しすぎだと思います。一種のスラングのようなもので、その世界の一員になるための表現(コギャル語・中学生語・学者語)の習得であって、「乱れ」というよりは「遊び」や「伝統」に近いものだと思います。もっというと、「本当に言葉の乱れた文章」を読むとそれぞれの語を気にする以前に、見た目の文字の狂いっぷりに怯みますね。

宮沢賢治が「かぷかぷ笑ったよ」とか狂ったことを書いたら、それは「幻想的である」とかいわれるのですから微妙なものです。「かぷかぷ笑ったょ」とか携帯電話を開けたときに書いてあったら絶望的な気持ちになります。でも、「かぷかぷ笑ったにょ」だったらちょっと萌えるかもしれない。