道具と機械と合理性

弓道の良さということは個々人がそれぞれに見出すことであって、究極的にこれというようなものはないでしょうが、それでも、ある程度は共通して惹かれるところというのはあるだろうと思います。僕が思うに、それは「道具としての合理性」と「自然との調和」です。ただ、この「合理性」というのは多義的な言葉で、どこまで考えを拡げるかによって意味合いが変わってきます。

たとえば、的に矢を当てるための機械的合理性という点では、きっと洋弓のほうが合理的でしょう。和弓と洋弓の違いとして、和弓は「道具」であり、洋弓は「機械」であるということがときおり言われます。機械というのは、その機能を発揮するために、その目的を果たすメカニズム以外はできるだけ省いて設計されます。それが機械にとっての機能的な洗練といえるでしょう。

目的はできるだけシンプルに設定し、無駄を削ぎ落とす。そして、その機能を十分に活かすために補助装置が必要だなと思ったら、土台となる機械にオプションを付け加えていきます。そのため、洋弓は「的に当てる」性能を高めるために照準を付け、反動を吸収する装置を付けという具合に、科学的な合理性にしたがって変化してきました。これはたしかに理に適っています。

一方、道具というのは、その機能を充分に発揮するためには人間の側でその道具を使いこなす必要があります。たとえば、和弓は単に機械的に弦を引っ張って離すと「右上方」に飛んでいきます。和弓というのはそういうデザインで完成されており、それがデフォルトなのです。これを人間が使いこなすことによって、性能をきちんと発揮することができるようになるわけです。

弓と身体を一体とするほど鍛錬を重ねることによって充分に弓の性能を生かすことができます。そのため、弓は使う人と共に育つ、他人の弓に勝手に触れてはならないと言われます。その弓にはその持ち主の癖が付いていて、持ち主以外の人がそれを使うと癖が混ざってしまい、射が崩れることがあるからです。ひとつの美しい射には、その人と弓との鍛錬が、精神性が現れます。

そして、射法というのは、和弓というそれ自体完成しているものの機能としては不完全な道具を十全に活かすための方法として、理に適ったものとして洗練されています。もちろん、だからといって洋弓というのは精神的に無味乾燥な代物だと言いたいわけではありません。むしろ、目的に対して不安定な要素の少ない純粋な行為ともいえるでしょう。

「合理性」の向かうところが違うということです。機械としての構造を洗練するのか、道具としての手法を洗練するのか、といったところでしょうか。どちらも良いところはあります。ただ、身も蓋もないことを言うと、単に的に当てることだけが目的なら、弓である必要はありません。ライフル射撃などのほうがよほど容易で精確でしょう。肉体的な鍛錬も必要なく、射程も伸び、精度も高いです。

しかしながら、弓道を始めようという人は、そういうこととはまた違うものを求めて、弓を始めるわけでしょう。そこにはやはり、また別の魅力があるに違いないのです。武道とはそういうものです。