教育というのは誰しもが自分で体験してきた道なので「ある程度の自信をもって」言及しやすい話題だろうけれど、それでもってしっかりと問題を定式化できている人は少ないと感じます。特にウェブでは「私怨」や「非難の声」が顕著すぎて少しがっかりします。そういうのは全般的に「共感者を呼びやすい」のであたかも「解決可能な問題」になっているように錯覚しますが、実際にはおおむねそこから問題を切り出しても「なにかしらの解決は得られないだろう」ということばかりです。

というわけで、僕の見たところでは特に「学力」と「指導」という言葉が絡みだすと危ないのだなという印象です。わりかしなにか社会的な問題が起こると「教育が悪いからだ」と組織の不備を指摘して納得されてきた節があるように思うのですが、最近ではそれが「学力が低下しているから悪いのだ」と間接的に場や、大きな流れを非難することで納得するように推移してきているようです。著しい具体性の欠如ですが、わかりやすい気はしてしまいます。

指導に関しては「学習指導」に狙いを絞りすぎて、「学校」という存在を把握し損ねている場合がきわめて多いです。学校というのは「学習指導」だけしているわけではありません。たしかにそこに狙いを定めると「学校は潰しちゃって、塾だけにすればいいじゃん」とか言いだすのはわかるのだけれど、これは愚かな発言です。

塾に行けない人はいっぱいるからです。(この箇所に不用意な発言があったことを「もんが」さんの指摘で判明したので削除しました。しかし、もんがさんの「こちら」で読めます。なお、塾に行けない人が恵まれていないということを言いたかったわけではありません。しかし、そうとしか読めなかったと思います。これは非常に反省しました)。上記の発言はそういう人たちを見捨てろと言っていることです。それはないでしょう。たしかに教育の働きとして「優秀な人をできるだけ早期に発見して、その才能を伸ばす」というのはあるでしょうが、それは微々たる機能です。

棚からぼた餅みたいなものだといっていいと思います。むしろ、そういったことを本気で機能させようと思うなら、学校の外部にそういう能力の発掘と育成に努める機関を設けたほうが良いです。これはあり得ない話ではないでしょう。でも、普通の学校は当たり前のことですがそういうことはしません。する必要もないでしょう。仮にしたとしても、そうやって発掘された才能の大半が「期待外れ」というのはありそうなことです。そうすると、公教育でそういうことをやった手前、その期待外れの人たちの社会保障もする必要がでる、これはだるい。

というか、本当に才能のある人は自ずから伸し上がります。周りが放ってはおかないでしょう。いや、そういうことでもないだろう、という人もいるかもしれないですが、それはあなたの周りにいままでそういう信じられないような才能の持ち主がたまたまいなかっただけで、同じ人間とは思えないような驚異的な才能を持った人というのは実際にいます。

それはいいとして、このサイトでも何度も言っていますが、学校の一番の目的は「できるだけおちこぼれをださないこと」です。先に書いたことが「社会に積極的に貢献する人の発掘と育成」だとしたら、こちらは「社会に積極的に迷惑をかけない人の育成」です。前者は社会に利益をもたらすために、後者は社会の利益を損なわないためになされます。もし、文章で気張ろうと思うなら、もう少しそういったところを意識したほうが良いと思います。あるいはこういう風にもっと偉そうにのたまっちゃうかのいずれかです。

学力に関する話題であれば、最低でも「本当に学力は低下しているのか」「そもそも学力とはなにか」「学力が低下しているのだとしたら、なぜ、それは悪いことなのか」程度は少し悩みつつ、書いたほうが良いと思います。また、なにを相手にしているのか、それは「教師」なのか「学習指導」なのか「教科書」なのか、あるいは「教育の理念」なのか「現場の負担と自由な裁量」のことなのか、もちろん、「小・中学校」なのか「高等学校」なのか「大学」なのか、それとも「企業の社員教育」なのかといったことは前提として明記しないと漠然としすぎてしまうと思います。

余談ですが、高度経済成長期になぜ日本が急激な成長を遂げられたのかの秘密を探るために当時、各国から日本に視察が訪れたらしいのですが、そのとき海外の人たちは最初「日本の学校教育が素晴らしいからだ」と狙いを付けていたらしいです。しかし、実際に来てみてわかったことは「日本は企業教育が素晴らしい」ということだったらしいです。いまがどうなのかということは僕は不勉強ですけれど、これはこれで興味深い話題だと思います。