満足と忘却の危険

ピアノが趣味の僕ですがさすがに20年ほど続けていると「それなり」に上達するもので、最近は自分で好きな曲を選択して弾けるようになりました。「弾けるはずのない曲」が弾けるようになったり、「弾けているはずの曲」を弾けていないと思うようになりました。はたして弾けているのか弾けていないのか、そういうことを思考しながら弾いています。実際には「弾いていること」が全部ですが、こういう場合の力点は「弾いている人」にあるようで、最重要なのはそういった周辺の事情がこれまた全部「弾いている音」に溶けさるということです。

どうやら、不思議なことですがそういうことが人生ではおうおうにして起きるようです。僕はまだ人生を見たことがないのでこれは推測ですけれど。それにしても、最近は弾いていても音を間違うことにためらいがなかったりして「自由といえばたしかに自由だな」と思います。クラシックにしてそれですので、ジャズやポップスなどいわずもがなです。いかにそういった「間違わないための練習」に拘束されていたかということでしょうか。そして、間違わないことの貴重さと間違ったことを理解できる貴重さの両面を実感するわけです。そして、いったい自分は「なに」に間違ったのかという疑問を持ち、僕の場合は大抵、間違ったことをそのまま受け容れてしまいます。目の前の楽譜より僕が偉いのは明白だからです。

作曲した人には悪いけれど、僕はそういう程度にしか楽しめないのです(つまり、僕は神への反逆者なのだ)。たまにしっかり曲の意図を汲みながら弾いたりすることもあるのですが、大概の場合、強烈な違和感を感じ、ときにはちょっと落ち込みます。音色が身体に浸透したのでしょう。どこかに溶け去ってしまったのです。ただ、この場合に限っては、落ち込むということを否定的に評価しているわけではないです。落ち込みたいから落ち込む曲を弾いているわけですし、そういったことに卓越した曲はとても心地の良い場所に僕を落ち込ませます。つまり、そのような否定ですら、僕は了承しうるわけです。

それにしても、こういうことってあらゆる分野、どの領域でも起こりうることだろうと思います。人はある瞬間に「自由になりたい」と思うことがあるようですが、それは概ね、「すでに自由だ」と発想することで回避できるでしょう。問題は自由であることにどれだけの価値があるかということだと思いますが、これといってないだろうなと思います。それが標準です。自由であることを知ると、不自由を評価できるようになるようです。