<小6同級生殺害>学校の対応うわべだけ 保護者に違和感
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040922-00000061-mai-soci

 実に巧妙に悪意のある文章だと思います、これは。まず、子どもたちのことを本当に思うならば、親がそういう不満を持っていたとしても世間にだしてはならないと思いますね。親が学校の不満を子どもに言うとかね。そういうのは「責任を保護者に転嫁している」とかいいながら、結局は自分の納得のいかなさを発散したいだけで子どものことを考えていないように感じます。内々で処理するのが大人らしい対応では。

 「しっかり向き合わなければならない」だなどといいますけれど、それはできるだけ早めに子どもたちに「事件を忘れさせる」ためにであって、わざわざ、子どものこころに「刻みこむ」ような真似はしちゃだめだろうなって思います。本当に「こころに傷を負った人」がその傷と真剣に向かい合いながら生きていけると思っている人がいたら、それは大間違いです。それほど甘いものじゃない。むしろ、自分に真剣すぎる、向き合いすぎることが傷を深めているということのほうが圧倒的に多いはずです。

 校長が言ったという「心の教育を学校でやっていても問題のある家庭には届かない」という「失言」も僕は実に真っ当な意見だと思います。当たり前のことです、家庭教育(躾だとか、学びの土台となる部分ですね)ができていない子どもには、どれだけ学校が頑張っても伝わるものはないでしょう。勉強というものは「教えられる」ものではありません、「学ぶ」ものです。スイッチの入っていないレディオは有害な電波も有益な電波も受信しないでしょう。学校というものをなにか、教育的に万能なものである、あらなければならないと勘違いしているのではないでしょうか。それは確かに理想ですが、難しいでしょう。

 学校はいま、いい言いかたをすると「社会から非常に期待されて」います。その期待に応えるために思考錯誤しながら、だめな教師を切り捨て、新しいスタイルを模索しています。意識の変革を迫られています。さてはて、安穏としているのは保護者だけです。家庭は非難ではなしにもっと学校に興味を示し、要求するだけではなしに協力する必要があるのではないかと思います。ちなみに、学校の先生が困ることには授業の教材研究や学級経営、生活指導やその他校務分掌などいろいろありますが、そのなかでも厄介なのは「家庭との連携」「保護者の理解を求めること」なのですね。大変です。

 それにしても、ここのところ、教育関係の話題が続きますね。たぶん、それだけ、「引っかかる報道」が多いのだと思います。「期待」の現れですかね(笑)。以前、「小六女児殺害事件」と「こころのケア」をキーワードにして、いま書いたのとは逆の立場で「こころに器を」という文章を書きました。よろしかったら、そちらも参考にして下さいな。