開かれたネット的誤謬

そろそろ、ウェブの話をするときに、その議論領域に<ウェブ全体>を取るような議論というのは成立しないのではないかと思います。それは実社会を語ろうとするときに「社会というのは」と始めるのと同じようなもので、議論として冗長になってしまいかねない気がします。また、「個人的な社会観」が「普遍的な社会観」として提示されてしまうという危険性もあるでしょう。

いままでは、「ウェブ」や「ネット」ということで把握される事柄は、曖昧ではあれ、その利用者の全員によって暗黙のうちに了解されていたのだと思います。むしろ、それを了解している人たちがウェブに参加してきて、ウェブで他者に言及できて、ウェブという場を活性化してきたのだと思います。それには技術的な素養も大いに必要だったでしょう。そして、翻っては、それらがウェブ独自の価値観を構成してきたものだったでしょう。

けれど、いまはもう違うのではないかと僕は思います。いや、違うというよりは、十分ではないといったほうが良いかもしれません。ウェブという場はたしかに技術者だけでも成立します。けれど、事実として、いまウェブを使っているのは技術者だけではありません。

ウェブはより公共的なものになってきています。ネットワークがどういう仕組みで成立しているかなど気にすることなく利用することができ、驚異的な利便性があって、実社会に与える影響力も大きい、そういう場にウェブはなりました。そこには、ウェブを支える根底的な価値観を瓦解させない限りにおいて、多様な価値観が持ち込まれることになるだろうし、それに伴ってコミュニティだって細分化しないわけがありません。

ウェブはオープンであると、ときおり言われます。たしかにこれはウェブの理念を表現したわかりやすい上に魅力的な表題ですが、いまやこれでは少し言葉足らずではないかと僕は思います。ウェブはたしかにオープンかもしれないけれど、むしろ、もはやウェブはパブリックなものになりだしているのではないでしょうか。そういう点で、ウェブというのは以前ほどフリーではありません。

これまでは、基本的に価値観を共有した人たちが集まる建物のなかにウェブはありました。そこでは通りかかる人の全員が、いってみれば意識的に友人であったり、同僚であるようなものだったかもしれません。しかし、いまはもうその建物のみならず、その建物を含む街のようなものにウェブはなりだしているのではないでしょうか。そこでは道で出合う人が皆、同様の価値観を共有しているなどという気持ちの悪いことはありません。

ネットは開かれています。公共の施設を利用したり街を歩いていても、誰に咎められることもないように。しかし、だからといって、人々の気持ちまで開かれていると考えるのは明らかに誤謬です。了承を得なければ立ち入れない領域は生じるだろうし、雰囲気を把握することのできない人が、いわゆる、空気の読めない人が、そこにいる人たちに無闇に嫌悪感を抱かれてしまうような場所もあるでしょう。でも、それは仕方のないことです。

たぶん、まだまだウェブは開かれていきます、より拡張されていきます、そして、相対的にクローズドな領域を、技術的にも、意識の上にも生みだすことになるでしょう。つまり、より実社会に近付いていっているということです。いまはまだ、それらを区別することはできるけれども。