耳をすませば」を観て自殺−77氏の感想
http://cgi.no-ip.org/MT/archives/000499.html
久々に見付けたので引っ張ってきました。名文です。虚構や物語に関する問題に取り組もうと思う人が感じる恐怖というのはこういうものなのかと思います。たまに「現実と虚構の区別」云々とかいう話がありますが、そうした区別はわたしたちが現実に生きている以上「虚構」に触れることによってなされるのは明らかです。翻って、わたしたちの現実が「現実」と括弧付きで把握され、現実と虚構という二項対立が生じるのです。

そのようなわけで「虚構」というのはどこかで「あ、これは現実の出来事ではあり得ない」とわかる瞬間があり、そして、なければならないわけです。本当にそうした区別が完全に可能で、かつ、なされなければならないのかと問われると、それは確かに難しい問題です。というのも、「虚構」に感情移入したりできるというのは、そもそも「虚構」が現実の要素を用いて、あるいはそれと関連付けて構成されているからです。

そういう意味では「虚構」と現実は連続しています。したがって、「現実」に目を瞑り、頭のなかの虚構の世界で生きたほうが人は幸せなのかも知れない可能性はあります。そして、少なからず人はそうした虚構を現実に抱きこみ、融和することで精神的に安定して暮らせるということも確かでしょう。しかしながら、やはり、虚構が創られるときには、あるいはその作品が紹介されるときには、あるいはその作品が観賞されるときには、そうした区別を最初の段階で意図されているのが穏当なのです。