「多忙の分類」(Four categories of Busyness.)

忙しい。僕も一年位前まではこの言葉を使っていた。別に僕は忙しいということが世界に誇れることかどうかと言われると、いや、馬鹿馬鹿しいほどにそんなことはないと思うけれど、一年前、肉体的・精神的に僕は本当に忙しかった(と、いまやっと考えられる)。

僕はいつからかは定かではないが、この「忙しい」という言葉を使うことをやめた。折に触れては「忙しいから」といって断わっていた種々の依頼や要望には「考えておこう」と、これまた曖昧な返事を返すようになった。これはもう、僕の口癖である(嫌なやつである)。そのように応えるようになった背景には、ひとつに「自分で自分の限界を示すような発言に嫌気がさした」ということと、もうひとつは「忙しいと思うのは、自分の能力が低下したからである」という森博嗣の言葉に共感を抱いたからである。

しかし、自己完結的に言葉の使用を規定するのならいざ知らず、「忙しい」という言葉は一般社会に根付いた極めてキャパシティの広い単語である。明確な使い分け、考え分け、というものがなされていれば対人的な苛立ちを軽減できるかもしれないとは思わないだろうか。だから、僕がここである程度の「忙しさの分類」というものを表現して、体系的にどのようにして自分の感覚は据えられるものなのかということをまとめてみたいと思う。できることなら、この分類で世界から「忙しい」という言葉の無差別な使用を崩壊させたいものである(といってみることになにか価値はあるだろうか)。

まず、「多忙」という状況には、二つの状態がある。

  • 【能動的多忙】
  • 【受動的多忙】

前者は多忙状態にある存在(以下、多忙者)が望んでその状態にいる場合。言い換えるなら、多忙者自身がその前段階において多忙になることが予期でき、かつそれを望んだ場合。または多忙になることを受け入れることが前提にある状態に対して、それを望まなくとも本人の意思によってその道を進んだという場合。これは「大学に進学する」「免許を取得する」といった場合に当たる。

後者は多忙者の主体的な、あるいは半主体的(自分の意志+環境的な要因から、対象に対する行為が半ば義務化しているような場合)な意志や行為とは関わりなく、環境的、偶発的要素によって多忙にならざるを得ないという状態に陥った場合。これは「親族が病気で倒れた」「車にはねられた」といった場合に当たる。

しかし、これらは「多忙」という言葉の多様性によって許容される複雑な事情の一面を捉えたに過ぎない。つまりは、拘束時間に対する「忙しさ」の尺度である。この段階においては多忙者本人の意思、あるいは「覚悟」というべきものが重要な要素に挙げられる。

ところが、上記の区分を捨ててでも取り入れる必要のある、本質的に極めて重要な別視点の尺度が存在する。そして、これこそが「忙しい」という言葉を対外的に使った場合に相手に白々しい感想を抱かせる原因になっていると思われる要素であり、区分である。

  • 【主観的多忙】
  • 【客観的多忙】

前者は主観的に多忙である場合。つまり、ある存在がただ一言「忙しい」と呟けば、即座に「多忙者」となれるような状態。この場合において、「忙しさは能力の低下」という言葉が説得力を持つ。しかし、この段階は本人の認識が真実であるような状態なので、本人以外の何者もそれを否定することはできない。よって、時と場合により、この状態は【空虚な多忙】ともいえる。

後者は客観的に多忙である場合。つまり、平均的な「多忙」からある存在が逸脱していると本人以外の存在が感じる状態。この場合において、不思議なことに【一般的な多忙の尺度】という概念が忽然と姿を現す。これまでは個人によって「多忙」の尺度が変化していたのにもかかわらず、なぜかこのときばかりは「一定の基準」で人々はその「忙さ」を推し量られることになるのだ。この状態においては「多忙」と推測される存在自体が自分の状態を「多忙」と感じていない場合もままある。

これは【主観的多忙】と【客観的多忙】のずれから生じる現象だろう。また、主観と客観という視点の区別を導入することにより「多忙」を表明する主体がどこにあるかという問題が発生する。この場合、本人が自分で「忙しい」と判断するときは【多忙者】、逆に周りの人間がある存在を「忙しい」と判断するなら【被多忙者】という風に区別したい。

このような明確な区分をした上で、このような分類ができると考えられる。

主観的多忙
客観的多忙
能動的多忙 身勝手な多忙・同情的多忙 無関心な多忙・意欲的多忙
受動的多忙 理不尽な多忙・悲劇的多忙 不条理な多忙・献身的多忙

しかしながら、主観的であり、同時に客観的でもあるような「多忙」状態も考えられる。このような場合、本人が「多忙」だと感じることが他人にも「多忙」と映るか、あるいは客観的に「多忙」と思われることを被多忙者本人も自覚しているかで微妙な違いがあるが、この区別は同一のものとみなして、総じて【主体的多忙】と呼びたい。

これは【主観的多忙】と【客観的多忙】の境界線に存在する「多忙」で、正確には分類自体をいささかファジィにする必要があるが、表における「多忙の分類」の明快な表現を優先して、例外として表外に記す。そして、この【主体的多忙】という状態が、およそ「忙しい」という言葉を使用する人にとって到達できうる「最良の状態」であろうと僕は思う。

では、簡略にその他の「多忙状態」についても説明する。

 【身勝手な多忙】(主観+能動)

自分から望んだ状況に対して、自分の能力不足から「多忙」を感じ、言葉にする場合。この場合、多忙者と他者との「多忙」は一線を画しているので多忙者にたいしては無言で同情するしかなく、失望する場合が多い。しかし、まさしく多忙者にとって「多忙」は真実であるので反論はできない。この段階にある人は自身の向上により状況の解決を図ろうとするよりも、むしろ、同程度の能力の人を集めることによって、自身の存在の正当性を主張しようとする。集団というのは得てして、この状態に陥りやすい。耳が痛いので、耳栓の購入をお薦めする。

 【無関心な多忙】(客観+能動)

自分から望んだ状況に対して、周りの人間が「多忙」であると感じるほど被多忙者が目的に対して意欲的である場合。この場合、被多忙者本人は「忙しい」を口にしない。または「忙しい」と思っていなく、「忙しい」という概念にたいして無関心である。このような人物はある意味で超人的であり、普通体がこのような状態であるような人と出逢った場合、自分とは格が違うと判断するのが正当かもしれない。格が違うというのは区分の問題であって、どちらが偉いという問題ではない。しかし、社会的に「成功者」と呼ばれうるのは相手の場合が多いだろう。

 【理不尽な多忙】(主観+受動)

自分の望まざる状況に対して、自分の能力不足から「多忙」を感じ、言葉にする場合。自分の能力の如何にかかわらず「多忙」が降りかかるので悲劇というしかない。この場合は理不尽さに「多忙」の源泉を求めるべきである。しかし、同時に理不尽さにたいして怨念・呪詛をぶつけたところで空虚であるため、人生の理不尽さから多忙者は愚痴を吐き出す場所が必要になる。従って多忙者同様に周囲の人も被害を受けることになる。この部分においてさまざまなカルトが金を稼いでいると思われる。

 【不条理な多忙】(客観+受動)

自分の望まざる状況に即して「多忙」にならざるを得なく、客観的に「多忙」と判断されうる場合。この場合、被多忙者自身は「忙しい」を感じていないわけではなく、言葉にしない限りにおいて理解はしているのだが、この「多忙」状態を受け入れて献身的に事態に臨んでいる。この状態は、望まざる「多忙」が客観的に判断されるほどに積み重なっているという悪夢のような状態だが、それがゆえに、この状態にある被多忙者は天使のように人々には映るだろう。また、この状況は主観的な要素が殺されているという非人間的な状況であり、ある種の信仰が関与している場合が多いと思われる。